九州メタル産業 50年の歩み
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取締役工場長当時の社員数は35名で、ほぼ西鉄からの出向社員の中に九州メタルの社員として加わらせていただき今に至っています。最初の仕事は、大型車でのスクラップ引取業務でした。その頃はお客様の所に行くと「スクラップ屋」と呼ばれ、まあ怖いの荒いの。無理難題仰るお客様に文句を言いたくなることもありましたが、グッと堪え引き取らせてもらったお礼を言って帰るといった大変な時期を過ごしていましたね。毎日へとへとで寮に帰り、めしを食い、ビールを飲むのが唯一の楽しみだったことを覚えています。その後、花形であった生産課に配属になった時は嬉しかったですね。一生懸命シュレッダーの運転を覚えました。その頃の生産課の親分は豪快でカリスマ性が半端ではなく、係員全てびくびくしていましたが一体感はすごかったですね。「シュレッダー鉄生産第一主義」の時代で、作れ作れの大騒ぎをしながら月に6,000トンの生産もざらだったと思います。あの頃を思い返すと、3年前に更新したシュレッダーの新型半自動運転は、昔のアナログな職人技にはかなわないなぁとつくづく感じます。何でも自分たちで直していましたからね。職人魂は今でも受け継がれていると思います。是非、今の若い人たちも、自分たちで直せるところは自分たちでやれるよう努力して欲しいですね。もちろん、失敗も多く経験するでしょう。私自身、異物が混入したスクラップを投入し、シュレッダーを連続2回爆発させて落ち込んだことは今でも苦い記憶として残っています。それから検収係に異動を命じられて、持込品の値付けや製品出荷を行うようになったのですが、気性の激しいお客様が多く、怒鳴られることも多々ありました。それでもお客様には気持ちよく帰ってもらおうと所作にも気をつけながら働いていました。この時期はメンタル面が特に鍛錬されましたね。当時の検収係の仕事には、受け取った荷物をシュレッダー材、ギロチン材、ガス切断材と、今は無き35トン・メカクレーンに電磁マグネットをぶら下げ選別し、適所に送り込むという作業がありました。仕事をする中で、マグネットに付かない金属が沢山有るのを知って「何なのか知りたい」と思い、出入りのお取引先様に教えてもらいながら勉強をしました。知れば知るほど面白かったのですが、そんな金属をコツコツと拾い集めていると、ある時当時の工場長から「そんなもんシュレッダーに放りこめ」と言われ、「どうして⁉」と思ったのを思い出しました。鉄を作ってなんぼの頃で、まだ真剣に非鉄に向き合っていない時だったからかもしれませんね。この頃からこの業種(金属リサイクル)にどんどん興味が湧きだし〈お客様は捨てさせてくれと物を持ってくるが、実は価値が有る物だったりする〉そんな不思議な商売だと思い、益々仕事が面白くなりました。思い返せば、小さい頃から祖父の時計やいらないものを分解し歯車で遊んだりして、色んな物をバラバラにして心弾ませていた子供でした。私たちの業種は、廃棄される販売機や電機品などの内部構造を見ることができ、子供のころのウキウキ感に通じるような気がします。そんな仕事ってあまりないかもしれませんね。もちろんそういった体験は、営業活動の基礎にもなります。お客様から見積りの依頼を受けた時に、その構成部材を想像出来ると、そこから何が回収できるか予想して原価値計算が出来るようになります。梅﨑 直樹私が入社したのは1990年(平成2年)でした。あの頃の思い出

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