九州メタル産業 50年の歩み
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生産課時代営業部時代検収係時代(シュレッダー内部にて)「スクラップ屋」と皆が言う時代を過ごし、苦い経験もしながら日々過ごしていましたが、楽しい思い出もたくさんありました。仕事以外にも、年2回の慰安旅行で国内の名所旧跡に行ったり、何かにつけて飲み会が催され騒いだりと、日々のきつかった仕事も、このために社員全員が頑張れた気がします。これまでの人生に色んな味付けをしてくれた会社に感謝しています。生産、検収を経て、営業部に異動しました。私自身、営業部が一番長かったのですが、仕事のマニュアルがあるわけでもなく、この頃は「見て覚えろ」の時代でした。何をしていいかわからず、当時の社長に相談すると「分からんでもいいから毎日業界新聞を読め」と言われ、これは今でも続けています。その頃はスクラップ価格が低迷していた時代で、月に1回必ずお客様を訪問していましたが、相場の悪い中話題や情報を持たずに行くと、「お前の顔を見たくない」「また下げの連絡に来たのか」と言われる日々でした。相場の事なので仕方がないとはいえメンタル的に堪えましたが、新聞を読むなどして多くの情報を得ると、だんだんとお客様の話題についていけるようになり、営業力の幅が広がりました。お客様回りを続けるうちに呼び方が、「あんた」から「梅ちゃん」と変わったときの喜びは、「やった!」という他に言い表せない喜びでしたね。営業部時代は思い返してみても、良い思い出はなかなか思い出せません。シュレッダー原料が欲しくていわくつきの物に手を付けてとんでもない目にあったことやクレーム処理など、頭を下げるのが仕事のような時もありました。原料不足で機械を止めないようにと母材確保に懸命に走り回っていました。インパクトの強い思い出として、崖の上の温泉旅館に行った慰安旅行で、宴会場に社長が現れず行方不明になる事件がありました。かなり酔っておられたので、もしや転落?!という最悪の事態かと皆で探し回ったら全く知らないお客の部屋で寝ていらっしゃってホッとしたことがありました。笑い話で済んで良かったですが、当時大いに肝を冷やしたことは今でも笑い話のネタになっています。そして今に至ります。営業の仕事を21年間務め、工場長の職を拝命した時には「今更!?」とびっくりしてかなり悩みましたが、受けたからには本物になろう、と今も勉強中です。ちょうど新プラントが稼働する年に工場長を仰せつかった事は「九メタマン」として光栄に思います。現場作業6年間、それから営業、工場長と経験してきて「仕事は、良い思い出よりも悪い経験を忘れずにいれば、同じ過ちを繰り返さない」と学習しました。私の持論でもあります。最後に、仕事は全てがきれいな仕事とは限りません。悩み、苦しむからこそ人間的にも成長します。多くの人と接しそれぞれの立場になって考える事、何事も誠意をもって接し、なおかつ信頼される人になること、最後には惜しまれる人になること。自分の事で精一杯で「人の事まで」と思うかもしれませんが、一番大切な事だと思います。若い世代の方がどのように感じるかは分かりませんが、「こんな時代があったんだ」くらいは覚えておいて欲しいと思います。時代の要求は急激に変化します。すべての業界がゼロカーボン経営に向けて進んでいる中、我々の業界は鉄鋼業界のCO2削減には無くてはならぬ存在ですし、花形産業になりうる事業体です。若い人たちには、時代の変化に敏感になり、胸を張ってより良い「九州メタル産業」を築いてほしいと思います。12

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